80年代歌謡曲について
Day6:演歌と歌謡曲の境界 ― 石川さゆり「天城越え」にみる融合
1980年代の歌謡曲を語るうえで見逃せないのが、「演歌」との関係性です。戦後から続く大衆音楽としての演歌は、哀愁漂うメロディと情念に満ちた歌詞で、中高年層を中心に支持されてきました。一方、歌謡曲は演歌・フォーク・ポップス・ニューミュージックといった多様な要素を取り込みながら進化してきたジャンルです。
この二つの境界は、80年代に入ると次第に曖昧になり、その象徴的な存在として語られるのが石川さゆりの「天城越え」(1986年)です。

「天城越え」という特異点
石川さゆりといえば「津軽海峡・冬景色」(1977年)が代表曲として知られますが、80年代半ばに発表された「天城越え」は、それまでの演歌のイメージを大きく超える楽曲でした。
この曲は、情熱的で禁断の恋を描きつつ、従来の演歌に見られる哀愁だけでなく、ドラマティックなアレンジと歌謡曲的スケールを併せ持っていました。作詞は吉岡治、作曲は弦哲也によるもので、力強さと繊細さを兼ね備えた歌詞とメロディは、世代を問わず幅広い支持を集めました。
その結果、「天城越え」は石川さゆりの新たな代表曲となるだけでなく、演歌と歌謡曲の垣根を越えた名曲として語り継がれることになります。
演歌と歌謡曲の境界線
1980年代、演歌と歌謡曲はしばしば「中高年向け」「若者向け」といった単純な区分で語られがちでした。しかし実際には、双方が互いに影響を与え合い、融合していく過程にありました。
石川さゆりの「天城越え」は、その象徴的な事例です。伝統的な演歌的歌唱法を基盤としつつも、シンセサイザーやストリングスを大胆に用いたアレンジは、当時の歌謡曲のトレンドを色濃く反映していました。これにより、演歌を聴かなかった若い層にも受け入れられたのです。
他の演歌歌手の動き
この時期、五木ひろしや森進一といったベテラン演歌歌手もまた、歌謡曲的な要素を積極的に取り入れました。たとえば五木ひろしの「細雪」(1983年)は、典型的な演歌の枠を超えたドラマティックなアレンジが特徴的でした。森進一もまた、歌謡曲的なバラードに挑戦し、世代を超えたファンを獲得していきました。
逆に、アイドルや若手歌手の一部がバラードで演歌的なこぶし回しを取り入れるなど、ジャンルの交流は双方向的に進んでいきました。
文化的背景 ― 「中高年」と「若者」の共通基盤
80年代はバブル経済が進行し、日本全体が華やかさに包まれていた時代です。しかし、その一方で人々の心には「切なさ」や「郷愁」への欲求が残っていました。演歌はその感情を強く表現できるジャンルであり、歌謡曲の中にもその要素を取り入れることによって、幅広い層に共感を呼ぶことができたのです。
「天城越え」が中高年層だけでなく若い世代にも歌われた背景には、そうした社会的な空気がありました。
「カラオケ文化」との結びつき
さらに重要なのは、80年代に普及したカラオケとの親和性です。「天城越え」はカラオケの定番曲として長く愛され、世代や性別を超えて歌われる楽曲となりました。感情を込めやすく、ドラマティックな盛り上がりを持つこの曲は、歌うことで聴く以上の体験を提供し、歌謡曲と演歌の融合を一層身近なものにしました。
歌謡曲の「懐の深さ」
「天城越え」のヒットは、歌謡曲というジャンルの柔軟性を示しています。
歌謡曲は「演歌」「ポップス」「フォーク」「ニューミュージック」などの要素をすべて取り込みながら、その時代の空気を映し出してきました。石川さゆりのような演歌歌手が歌謡曲的なサウンドでヒットを飛ばしたことは、この懐の深さを証明したといえるでしょう。
まとめ
1986年の「天城越え」は、演歌と歌謡曲の境界を越えた象徴的な楽曲でした。
それは単にヒット曲というだけでなく、「世代やジャンルを越えて共有できる音楽体験」の可能性を示したのです。
80年代は、アイドル歌謡やシティポップなどが脚光を浴びる一方で、石川さゆりのような存在が「伝統」と「革新」をつなぎ、日本の音楽文化に厚みを与えていました。
参考文献
- 馬飼野元宏『演歌の時代と歌謡曲の交差』太田出版、2014年
- 田家秀樹『ヒットの正体 80年代歌謡曲の真実』講談社、2015年
- 『読売新聞』文化欄「天城越えと演歌・歌謡曲の融合」2018年記事
- NHKアーカイブス「石川さゆりと昭和・平成の歌謡曲」